フィンランド・グラスアート
フィンランド・グラスアート
輝きと彩りのモダンデザイン
発売日 2022/11/01
判型 A4変型判 ISBN 978-4-336-07352-5
ページ数 232 頁 Cコード 0072
定価 2,970円 (本体価格2,700円)
機能性とともに洗練された美しさを誇る北欧フィンランドのデザイン。なかでも、デザイナーが自ら「アートグラス」の名のもとにデザインし、職人との協働作業によって制作した芸術的志向の高いプロダクトは、比類のない「輝き」と「彩り」に満ちている。本書では、8名のデザイナー・作家の作品約140件によって、1930年代から今に至るフィンランド・グラスアートの系譜を辿る。それぞれの表現者たちがいかにガラスという素材と対峙し、探究し、創作の可能性を広げていったのか? 各時代、各作家のガラスへの信条と挑戦、そしてプライベートな想いを堪能できる一書。
土田ルリ子 (ツチダルリコ)
富山市ガラス美術館館長。
カイサ・コイヴィスト
元フィンランド国立ガラス美術館チーフ・キュレーター。
<目次および収録作家紹介>
はじめに Introduction
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アートグラスの創作 アーティストとガラス職人のコラボレーションが成すもの
(カイサ・コイヴィスト:元フィンランド国立ガラス美術館チーフキュレーター)
フィンランド・グラスアートにおける「アートグラス」と「ユニークピース」
(土田ルリ子:富山市ガラス美術館 館長)
*
第1章 フィンランド・グラスアートの台頭
【アルヴァ・アアルト Alvar Aalto 1898–1976】
【アイノ・アアルト Aino Aalto 1894–1949】
アルヴァとアイノ・アアルトは、フィンランド・デザイン界でモダニズムを推し進めた最も著名な建築家およびデザイナーである。1921年にヘルシンキ工科大学を卒業したアルヴァは、1923年にアアルト事務所を開設した。翌年、同事務所に加わった妻アイノ(1920年同大学卒業)と共に、建築設計をはじめとして、家具、ガラス器のデザインなど、多岐にわたって活躍した。パイミオのサナトリウム(1929–33)、ヴィープリの図書館(1927–35)の設計によって国際的な名声を収めた二人は、晩年に至るまでフィンランド・デザイン界を牽引し続けた。ガラスの分野では、まず1932年にカルフラ=イッタラ・ガラス製作所が主催したコンペティションで、アイノの〈ボルゲブリック(スウェーデン語で「水の波紋」の意味)〉シリーズが二等を受賞し、1936年のミラノ・トリエンナーレで金賞を得た。またアルヴァは、1936年にデザインした《アアルト・ヴェース》(通称「サヴォイ」としても知られる)がカルフラ=イッタラ社主催のデザインコンペで優勝し、翌年のパリ万国博覧会のフィンランド館(アアルト夫妻設計)で高く評価された。20種以上ものヴァリエーションをもつこのシリーズは、1980年代から連続生産され、フィンランドのプロダクトが誇るタイムレス・デザインの象徴ともなっている。
【グンネル・ニューマン Gunnel Nyman 1909–1948】
ヘルシンキ中央工芸学校で家具デザインについて学び、フリーランスの家具デザイナーとしてその経歴をスタートさせた。あまり知られていないが、1932年から38年までタイトー社に、1939年にオーノ社に、そして1943年から48年までイドマン社に、照明のデザインを提供していた。彼女のデザイン性が最も輝いたのはガラスの分野である。乳がんを患い、惜しくも1948年に39歳の若さでこの世を去ったニューマンであったが、1932年からのその短い活動期間において、フィンランドを代表するガラス製作所であるリーヒマキ・ガラス製作所、カルフラ・ガラス製作所、イッタラ・ガラス製作所、ヌータヤルヴィ・ガラス製作所に多くのデザインを提供し、アアルト夫妻と共に、フィンランド・グラスアートの台頭期を支える双璧を成した。彼女は1948年に記した『ガラス』というエッセイの中で、創作する際に重要なことは、まず素材をよく知ってその特質を最優先させること、そしてその素材でなければ成立しない作品をつくることであると述べている。加えてガラス制作において、吹きガラスは他の素材には当てはまらない、特筆すべき技法だと認めている。自身が語る通り、彼女のガラスは素材感を最大限に生かしながら、非常にミニマムなラインで端的に表された、洗練された造形であった。
第2章 黄金期の巨匠たち
【カイ・フランク Kaj Franck 1911–1989】
「フィンランド・デザインの良心」との異名をもつ、国際的に著名なガラス・陶器デザイナー。1932年にヘルシンキ中央工芸学校の家具デザイン科を卒業後、1933年にタイトー社の照明デザインを担当し、そのキャリアを開始した。第二次世界大戦を挟み、1945年からアラビア製陶所に新設されたプロダクト・デザイン部門のディレクターに就任した。1946年、カルフラ=イッタラ・ガラス製作所主催のデザインコンペで二等および三等を受賞し、同所の製品開発に従事する機会を得たことが、ガラスの分野での本格的な活動に繫がる。1951年にはヌータヤルヴィ・ガラス製作所のアート・ディレクターに就任した。プロダクト部門においては、スタッキングできるシンプルで使いやすい形状や、卓上シリーズでの幾何学的形態の組み合わせなど、一般家庭に寄り添うデザインが多い。また大量生産品においてデザイナーは匿名性を保つべきと主張した。一方、「アートグラス」の分野では、一点ずつ手吹き制作を要するもの、素材の実験的な調合によって表面に独特なテクスチャーをもつもの、大胆な色使いの皿など、プロダクトの抑制から解放された造形が顕著にあらわれている。加えて、「アートグラス」においてはデザイナーのサインを刻むことを主張し、プロダクトとは一線を画す立場をとった。
【タピオ・ヴィルッカラ Tapio Wirkkala 1915–1985】
ガラス、銀器、木、陶器など、あらゆる素材に長けたマルチデザイナー。1950年代から1960年代は、「ヴィルッカラの時代」とも呼ばれるほど、多くのジャンルで活躍し、第二次世界大戦後、デザイン国家フィンランドの構築に大いに貢献した。1936年にヘルシンキ中央工芸学校の装飾彫刻科を卒業し、広告用イラストで生計を立てていた彼に転機が訪れたのは、1946年のこと。カルフラ=イッタラ・ガラス製作所が主催したデザインコンペで最優秀賞を受賞し、ガラス・デザインの道が拓けた。あらゆる素材によく耳を傾け、調和を目指したヴィルッカラが、最もその才能を発揮したのは、ガラスの分野である。1951年、54年のミラノ・トリエンナーレではフィンランド館の展示デザインも手がけ、作品と展示の双方でグランプリを受賞し、デザインにおけるその多才ぶりは国際的に評価されることとなった。フィンランド・デザインは自然との結びつきが強いが、ヴィルッカラほどその幸せなハーモニーが顕著にみられるデザイナーはいないだろう。彼の手にかかれば、山の茸や北極圏の氷山も、抽象的で洗練されたオブジェとなった。素材とコンセプト、有機と抽象、用途とオブジェといった両極の絶妙なバランスこそが、ヴィルッカラのデザインによる造形の最大の魅力である。
【ティモ・サルパネヴァ Timo Sarpaneva 1926–2006】
ガラス、テキスタイル、鉄、スチール、陶器など、多様な素材を操ったデザイナー。「ガラスは、既成概念や三次元から自らを解放し、心の奥深くを開いて四次元への旅に導いてくれる」と自身が語るように、サルパネヴァが最も得意とした素材はガラスであった。ヘルシンキ中央工芸学校でグラフィックを専攻し、1948年に卒業した。彼にガラス・デザインを手がける最初のチャンスが訪れたのは、1949年のリーヒマキ・ガラス製作所のデザインコンペであった。銀賞を受賞し、同社でデザインの仕事を約束されたものの、無償を告げられたため、敢えなく契約に至らなかった。1951年からイッタラ・ガラス製作所のデザインに従事し、1954年、57年のミラノ・トリエンナーレで発表した「アートグラス」がグランプリを受賞すると、その才能は国際的に高く評価された。ただし、元来彼は、たとえそれが製品であってもアートとして制作しているにもかかわらず、その意に反して用途を付加されることが度重なった。のちに彼は、当時ガラスは、未だアートの素材として認められていなかったと振り返っている。1956年に発表した日用品シリーズのひとつ〈i-ライン〉のためにデザインしたロゴが、長きにわたりイッタラ・ガラス製作所自体のロゴとして使用されたこともよく知られる。
【オイヴァ・トイッカ Oiva Toikka 1931–2019】
ヘルシンキ工業芸術学校で陶芸と美術教育を学びながら、アラビア製陶所でデザインの仕事をし、また美術学校の教員を務めるなどしたのち、1963年から、当時カイ・フランクがアート・ディレクターを務めていたヌータヤルヴィ・ガラス製作所でガラス・デザイナーとしてのキャリアをスタートさせた。フランクとはある時期隣同士に住み、家族ぐるみの付き合いをするほど、生涯を通じて信頼関係を育んだ。ガラスの他にも、アラビア製陶所の陶器、フィンランド国立劇場の舞台芸術や衣装、マリメッコのテキスタイルのデザイン等で、その才能を発揮した。子ども心を大切にしたトイッカの造形は、タピオ・ヴィルッカラ、ティモ・サルパネヴァ等先輩デザイナーとは明らかに一線を画し、日用品、「アートグラス」のいずれの場合も、カラフルで心弾む自由に満ちたものであった。現場をこよなく愛した彼は、事前にデッサンを描き込むなどせず、職人たちとのやり取りの中で得たテクニックやインスピレーションを生かした、自然発生的なものづくりに徹した。1971年に開始された彼の〈バード・バイ・トイッカ〉シリーズは、毎年デザインを増やし、色とりどり、多種多様な鳥たちを今なお生み出している。「新しい技術が、新しい作品を生み出す。興味をもってやり続け、驚きをもって待ち続けること」、そして「笑顔を絶やさずに」という彼の次世代へのメッセージこそ、トイッカ本人の信条に他ならない。
第3章 フィンランド・グラスアートの今
【マルック・サロ Markku Salo 1954– 】
カンカーンッパ美術学校とヘルシンキ芸術大学でファイン・アートとインダストリアル・デザインの双方を学んだサロは、1978年からデステム社SLOグループに照明デザインを提供し、その翌年から電子機器メーカーのサロラ社でデザイナーを務めたのち、1983年からヌータヤルヴィ・ガラス製作所で、ガラスのデザインを開始した。サロは、「デザインもアートも共に不可欠だが、素材へのアプローチが異なる。デザインする場合はユーザーのことを考え、アートに従事する場合は、自分自身のことを考える」と語っており、日用品と「アートグラス」のどちらに携わるかで、彼自身、明確に視点を変えてもの作りに取り組んでいる。しかしいずれの場合も、どこかユーモラスで、身体的な表情を醸し出す造形が、サロのデザインの特徴といえよう。1991年にムオトフオネ社を立ち上げ、フリーランスのデザイナーとしての活動を開始した。自由な立場からの実験的な試みのなかでも、自作の目の細かい金属メッシュに直接ガラスを吹きこんだ〈メッシュ〉シリーズは、彼の造形のトレードマークのひとつになった。今やガラスのみならず、ブロンズや石など他素材のアート作品も制作する傍ら、大規模なパブリック・アートも手がけ、創作の幅も規模も拡張しながら活躍している。
【ヨーナス・ラークソ Joonas Laakso 1980– 】
確固たる技術力と造形性に裏付けられ、独創的なガラス制作に取り組むアーティスト。1999年から2000年までインカーリネン工芸デザイン学校で陶芸とファイン・アートを学び、2002年にカンカーンッパ研究所で初めて吹きガラスに出会った。その後2005年から2008年まで、ハーメリンナのタヴァスティア専門学校に学び、リーヒマキに工房を構える吹きガラスの巨匠ヤアッコ・リイカネンの下で実習生として働きながら、グラスアートに関わる技術習得と研鑽を積んだ。ラークソはその気の短さから、協働作業には向かないと揶揄されることもあるが、師匠であり親友でもあるリイカネンは、ガラスを吹くには激しい気性も必要だとこれを認めている。ラークソは、インカルモ(合わせる面を正確に成形し、別々のガラスを熱いうちに溶着する技法)、フィリグリー(レースグラス)、バットゥティ(同一方向に無数の細かい彫りを刻む技法)など、特にヴェネチアン・テクニックに長け、それらを独自に組み合わせるなどして、新たなアプローチを発展させた。造形のコンセプトは、自身の実生活や若者カルチャーなど現代社会になじみ深く、流行りの映画や料理、菓子など、身近で何気ないものにインスピ
レーションを得ながら、時にスタイリッシュに、時にユーモラスな作品を生み出している。
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作品リスト List of works
関連年表(編:名村実和子)
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Making art glass: On the cooperation of artists and glassmaking professionals
Kaisa Koivisto
Glass Art of Finland: Art Glass and Unique Pieces
Tsuchida Ruriko