タソガレエイガカン
黄昏映画館
わが日本映画誌
発売日 2022/06/21
判型 四六変型判 ISBN 978-4-336-07297-9
ページ数 984 頁 Cコード 0074
定価 7,700円 (本体価格7,000円)
50年にわたる日本映画論を集成。練達の案内人(チチェローネ)が誘う異貌の映画史!
映画評論家上野昂志による50年分の日本映画論を集成。鈴木清順、大島渚、吉田喜重、加藤泰、黒木和雄、川島雄三、山田洋次、北野武、阪本順治などの作品評論を監督別に収録、異貌の映画史を形作る。
蓮實重彦、山根貞男、山田宏一各氏推薦!
〈外国映画も存分に見ている上野昻志は、伊藤大輔から鈴木清順を介して濱口竜介まで、一世紀を超えんとする日本映画を語ることにもっぱら集中し、主張よりも描くことに徹しているさまは、本人にその意識があろうとなかろうと、ひたすら優雅である。不意に視界に浮上したその「優雅さ」の歴史的な意味を噛みしめよ。試されているのは、われわれ読者なのだから。〉蓮實重彦
〈上野昻志は声高には話さない。ぼそぼそと独り言のように語る。そこで気楽に聴いていると、どきりとする瞬間がある。映画についての文章も同じで、軽口めく調子で始まることが多いが、ギラリと批評の刃が飛び出す。なぜそうなるのだろう。見たという体験にこだわり、考え、言葉を紡ぎ、映画を発見しつづけるからにちがいない。本書はその動態のドキュメントである。〉山根貞男
〈誰もが映画ファンとして映画評論家にはなれるとしても、それはただ、つくられた映画、出来上がった作品を見て、たのしみ、語り、書き、分析をしたりケチをつけたりするだけで、映画の製作に直接かかわることはできないのだが、上野昻志さんは、なんと、映画のプロデューサーになったことがある稀有な評論家だ。それも吉田喜重監督の傑作の一本で私にとっては『秋津温泉』とともに最も忘れがたい吉田喜重作品であり三國連太郎主演の代表作の一本でもある『戒厳令』のプロデューサーである。
映画ファンにとっては、なんといっても、映画がいかにしてつくられるかという、つまりは映画づくりの秘密そのものが最も知りたいところで、といっても、製作現場をとりしきる強面のお偉方には容易には近づきがたく、たまたま上野さんとは友だち付き合いをしていたので、さっそく私はプロデューサー・上野昻志にインタビューを申し込んだ。ささやかなわが映画インタビュー体験においても出色の(などと自ら誇るのもおこがましいけれども)興味深い映画トークになったことは言うまでもない。
上野さんはまた、韓国の映画学校に招かれて映画を講じていた時代があり、ソウルからの便りに「本場のキムチは日本のキムチほど辛くない」と書かれていて、つい笑ってしまったことを思い出す。味にはおおらかとはいえ、けっこううるさい上野さんなのだ。
評論家・上野昻志の著作はいろいろ出版されていたが、なぜか映画の本だけがまとまって出ておらず、私は雑誌や新聞などで断片的・断続的にしか読めなかった上野さんの書いた映画についての文章を、全部とはいかなかったが、僭越ながら一冊の本(「映画=反英雄たちの夢」)に編集したことがあった。力不足で思ったとおりの本ができずに悔やんでも悔やみきれずにいたところ、うれしいことにその大半が今回の上野昻志日本映画論集成にはあらためて収録されて、あれやこれや、事程左様に、新聞雑誌に氾濫するいやしいつまみ食い時評とは一線を画した妙味あふれる異色の辛口批評の大冊、ついにお目見えである。〉山田宏一
上野昻志 (ウエノコウシ)
1941年東京生まれ。評論家。66年、東京都立大学大学院在籍中(専攻は中国文学)に漫画雑誌「ガロ」の社会時評的コラム〈目安箱〉連載で執筆活動に入る。69年から山根貞男・波多野哲朗・手島修三編集の雑誌「シネマ69」にて映画批評も執筆し始める。2008~10年、日本ジャーナリスト専門学校校長。著書に『沈黙の弾機 上野昂志評論集』(青林堂、71年)『魯迅』(三一書房、74年)『巷中有論 街にケンカのタネを拾う』(白夜書房、78年)『現代文化の境界線』(冬樹社、79年)『紙上で夢みる 現代大衆小説論』(蝸牛社、80年/清流出版、2005年)『映画=反英雄たちの夢』(話の特集、83年)『肉体の時代 体験的60年代文化論』(現代書館、89年)『ええ音やないか 橋本文雄・録音技師一代』(橋本文雄と共著、リトル・モア、96年)『映画全文 1992~1997』(リトル・モア、九八年)『写真家 東松照明』(青土社、九九年)『戦後60年』(作品社、05年)、編著に『鈴木清順全映画』(立風書房、86年)、『映画の荒野を走れ プロデューサー始末半世紀』(伊地智啓著、木村建哉と共編、インスクリプト、15年)がある。
伊藤大輔
われわれはほとんど伊藤大輔を知らない
清水宏
清水宏が山道を歩く人を撮るとき
楽しげな軍事練習――『花形選手』
小津安二郎
小津の戦後における家庭劇が行き着いた地平
成瀬巳喜男
成瀬巳喜男の一九六〇年代と現在
マキノ雅弘
複数的なるもの――マキノ
感性の反応にこだわる
映画に飢えてマキノを見る
甘美にして残酷な経験を強いたマキノ映画――マキノ雅広追悼
山中貞雄
山中貞雄を読む快楽と悲哀――『山中貞雄作品集』『監督山中貞雄』書評
加藤泰
一生活者の不断の格闘――『遊侠一匹 加藤泰の世界』にふれて
〈生〉への痛恨の想い――加藤泰論
黒い画面とひとつの光
情熱と力の行方――『日本侠花伝』に見る“裸形の生”
加藤泰監督の一周忌に『ざ・鬼太鼓座』の公開を望む
これからの加藤泰
加藤泰の女の映画五本
語りがそのまま生きた映画史に――『加藤泰資料集』『加藤泰、映画を語る』書評
川島雄三
川島雄三の場所
残酷な忘却装置、東京
田中徳三
女の愛を描く作家
鈴木清順
振り出しに戻る監督
魯迅が魯迅であるためには
『悲愁物語』の前後
鈴木清順の運動――『ツィゴイネルワイゼン』
無垢の魂を隠しもつ――『孤愁』書評
泉鏡花と鈴木清順――『陽炎座』をめぐって
ナイーヴな男は罰せられる――『陽炎座』
聞こえるはずのない歌――清順映画の媚薬
すべてを解体する――『カポネ大いに泣く』
みなづきに時代錯誤の贅沢を求めて
一人の批評家の死、そして理不尽ということ
『夢二』――贅沢な映画
清順、ロッテルダムを行く
鈴木清順の過激な批評――『ピストルオペラ』
世界は一瞬のうちに変貌する――追悼鈴木清順
石井輝男
石井輝男の新しい一歩――『ゲンセンカン主人』
活動屋・石井輝男の『ねじ式』
増村保造
愛の化身、そして若尾文子は、いつ微笑むのか?
道行きの道はいつも上り坂――『曽根崎心中』
森崎東
森崎東のボトム
現在のただ中に描き出された老荘的な共同体への熱い思い
――『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』
森崎東における炭鉱と原発
現在と過去を自由に往還することで見えてくるもの――『ペコロスの母に会いに行く』
土本典昭
『ドキュメンタリーの海へ 記録映画作家・土本典昭との対話』から土本典昭の仕事を考える
深作欣二
深作欣二と笠原和夫
黒木和雄
敗北への志向、あるいは複数の空間と時間――黒木和雄論
山田洋次
死との過激な戯れ、そしてその喪失 山田洋次論
帰ってくる男 続・山田洋次論
夏が過ぎ、そして秋が来ました…… 続々・山田洋次論
キネマは何処に消えたか――『キネマの天地』
大島渚
大島渚論
創造社時代の大島渚
大島渚、創造社時代の幕あけ
大島渚の一九六八年
創造社の終焉 終わりの始まり
性愛の政治学へ――ポスト創造社時代
ワイセツでケッコウ
改めて「わいせつ」を生きる
漆黒の闇に塗り込めた希望――『天草四郎時貞』
買われる女、買う男――『悦楽』
楕円運動の遠心力と求心力――『無理心中 日本の夏』
スクリーンの破れ目としての穴――『愛の亡霊』
大島渚ベスト3――いま見直した作品こそが最高なのだ
〈顔〉の映画――『マックス、モン・アムール』、そして『ゆきゆきて、神軍』
批評的な作家からの挑戦状――『大島渚1960』書評
吉田喜重
曖昧さのなかへ――『煉獄エロイカ』
記憶を喚起しながら、それを絶えず破砕していく運動――『鏡の女たち』から
吉田喜重全映画+α
映画にもっとプロの力を!――『戒厳令』の現場
二・二六事件と『戒厳令』
記憶を修正しない姿勢貫く――『吉田喜重 変貌の倫理』書評
三村晴彦
『天城越え』あるいは対応の方法
曽根中生
閉された空間を作る――『天使のはらわた 赤い教室』
小沼勝
ロマン・ポルノ、小沼勝の揺るぎない磁場
澤井信一郎
資質も好みも違うが、澤井信一郎と森崎東は虚実が互いに入れ替る場を共有している
――『ロケーション』と『Wの悲劇』
「永遠の現在」を映画に転換する工夫――『めぞん一刻』
アクションとしての演奏あるいは横顔のドラマ――『わが愛の譜 滝廉太郎物語』
サスペンシブな『日本一短い「母」への手紙』は決して母もの映画ではない
布川徹郎とNDU
NDUは、境界を往く
原一男
『ゆきゆきて、神軍』の言の葉
柳町光男
新たなる地図を描く――『十九歳の地図』
外に向けられた映画の開放感――『旅するパオジャンフー』
長谷川和彦
死体、その後――『青春の殺人者』
弾むモノとしての原爆――『太陽を盗んだ男』
荒戸源次郎
死出の旅路に導かれ――『赤目四十八瀧心中未遂』
原作の埃を入念に払った後に映画が見つめたもの――『人間失格』
荒戸源次郎――ある風雲児の記憶
北野武
歩く人と見る人――映画作家、北野武
『ソナチネ』には絶えず胸騒ぎを覚える
生の不可逆的な時間を捉える――『キッズ・リターン』①
世界の残酷さに触れる――『キッズ・リターン』②
たけしの顔、そして絵――『HANA-BI』
アクションとしてのチャンバラという明確な戦略意識――『座頭市』
組織暴力の純粋形態――『アウトレイジ ビヨンド』
飯塚俊男
土と手と水の映画――縄文三部作に寄せて
相米慎二
運動体としての「世界」――『魚影の群れ』
この映画には秩序が要請する滑らかさとは逆の凸凹があり、
それが饒舌とは反対の絶句へとわれわれを導くのである――『ションベン・ライダー』
夏の終りに――『台風クラブ』
『お引越し』は相米慎二の見事な成熟ぶりを示す
『トカレフ』や『夏の庭』は、アホな評論家の頭を越えて映画の現在に向かう
相米慎二は新しい境地に立った――『あ、春』
崔洋一
必要不可欠な筋肉だけでできてる映画――『友よ、静かに瞑れ』
散逸する物語――『月はどっちに出ている』
ピカレスクロマンの快作――『犬 走る DOG RACE』
小手先の演技を超えた陰影――『刑務所の中』
歴史を個の肉体の体現として描いた強固な志――『血と骨』
原将人
原将人の旅、そして『初国知所之天皇』
井筒和幸
「日常」に風穴をあける―― 『ガキ帝国』
井筒和幸は深化する――『ヒーローショー』に寄せて
『ガキ帝国 悪たれ戦争』を巡って
黒沢清
『地獄の警備員』は潔く倫理的な映画である
『CURE』は、バモイドオキ神を顕現する
虚から現への反復――『スパイの妻』
山本政志
アホもまた進化する――『アトランタ・ブギ』
佐藤真
映画、その奇蹟的時間――『阿賀に生きる』
見ることのレッスン――『SELF AND OTHERS』
表現を受けとめるということの大事さ 映画『花子』を見て
世界が立ち現れる瞬間に出会う――『ドキュメンタリー映画の地平』書評
ドキュメンタリー映画はどこに向かうのか
阪本順治
久しぶりだぜ。『どついたるねん』で日本映画に興奮する
再生のための闘い――『鉄拳』
大阪で『王手』を見よう
非対称の視線――『トカレフ』
素朴なアクションがファンタジーを支える――『ビリケン』
『顔』を支える肯定の力――阪本順治の新作を追いかけて
二〇〇七年は阪本順治の『魂萌え!』で始まる!
痛みを体感すべく映画に向かう――『闇の子供たち』
弱点をも凌駕するほどパッションが噴出した――『行きずりの街』
ハバロフスクの『人類資金』
単純であることの強さ――『ジョーのあした 辰吉丈一郎との20年』
理想が失われた時代に向けて――『エルネスト』
瀬々敬久
瀬々敬久の軌跡――アテネ・フランセ文化センター講演
『雷魚』の風景にうたれる
誰ともしれぬ主観の影が重なるように――『ユダ』
諏訪敦彦
決定的な時間が流れた――『2/デュオ』
青山真治
悲しみの風景を疾走する――『死の谷'95』書評
圧倒的な音の渦――『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』
大いなる父の死と女たちの力――『共喰い』
豊田利晃
敗者たちの覚醒――『アンチェイン』
明確な輪郭で描く画面と確かな構成力に感じる力――『青い春』
滑稽にして悲惨な色に染まりながらも、純な魂は……――『ナイン・ソウルズ』
小栗判官から『鋳剣』へと蘇る豊田利晃――『蘇りの血』
雪に埋もれた山中から、いま、孤独なテロリストが降り立つ――『モンスターズ・クラブ』
大森立嗣
新たなる混沌に向けて……――『ゲルマニウムの夜』
大森立嗣は直球勝負でくる!――『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』
煉獄をさまよう孤独な魂――『ぼっちゃん』
隔たりを生きるということ――『さよなら渓谷』
横浜聡子
生死の彼岸 陽人は超人か?――『ウルトラミラクルラブストーリー』
一人の少女の成長に立ち会う――『いとみち』
濱口竜介
日本映画では極めて稀な純粋恋愛映画――『寝ても覚めても』
日本映画ベスト50――映画状況の変化に独断も偏見もままならず選んだベスト
あとがき
索引(人名・映画題名)