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000谷中安規は、1897年(明治30)1月18日、奈良・長谷寺の門前町初瀬に生まれている。長谷寺は現在の桜井市の奥まった場所、山懐に抱かれるように建立され、西国札所八番目の霊場として、また牡丹の咲く名刹として知られている。重要文化財にも指定され、見上げるばかりの大きさに圧倒される十一面観世音菩薩像でも有名な、真言宗豊山派総本山である。 参道に沿って流れる初瀬川のたもと、坂下から本殿を見上げるような場所に、安規の生家はあった。父親は「伊賀安」の屋号でさまざまな商売を起こした実業の人であったらしい。直接、長谷寺に関係していたわけではないが、安規が長じて豊山中学に学ぶことになるのをみると、この土地柄が関係ないとはいえない。空海によって伝えられた真言密教は大日如来を教主として曼荼羅が作られ、多くの呪法、祈祷が行われた。彼のイメージにたびたび現れる仏教的な環境や死生観は、こうした出自が色濃く反映していると思われる。 その後一家は京都の西陣に移り染物工場を始めるが、ここで母親は安規が6歳のときに病没している。母親のことが安規の中に永く沈殿していたのは、晩年になると際立って画面に登場する裸婦像とイメージが重なることからもわかる。その後の父親の女性関係は複雑であり、必ずしも平穏な家庭だったとはいいづらい。 また父親は移り気だったとみえ、安規をひとり新潟・鯨波村にあずけ、一家して下関から関釜連絡船で朝鮮・京ソウル城に渡る。日韓併合がなされる前夜であった。そしてそこで新たな商売として、洋品雑貨店「大和屋」を始める。日本人も多く暮らしていた明治町、現在の明ミョンドン洞にあたるソウルの中心的な繁華街である。 やがて、小学校を卒業して、京城の一家とともに暮らし始めた安規は、ここで青少年期を過ごすことになる。朝鮮の習俗や景観、先祖崇拝などの儒教的な生活環境が、原体験として刷り込まれたらしく、そのイメージは作品のなかにしばしば見られる。初期の作品《供養者》、《祖先》などや、終生繰り返される朝鮮の民家や虎、龍などの図像はその表れだろう。 18歳のとき安規は単身上京し、東京・護国寺の真言宗豊山派付属の豊山中学で寄宿舎生活を送るようになる。この豊山中学は同派の師弟のみが入学を許される学校であったが、それには叔母と・・みが嫁いでいた越後古志郡(現・長岡市下塩)の妙圓寺の住職内山賢峰のつてを頼っていた。同級生は13歳から17歳と幅があって、安規は年齢的にはもっとも年長であり、遅い入学であったことがわかる。 ここでの成績表が現存していてそれを見ると、1学年では71名中7番でトップクラスの「優」の成績を残している。とくに国語の成績が秀でているが、美術は平均的な評価しか与えられていない。しかし、2学年から成績は急降下し、4学年ではほとんど最下位のレベルまで落ちている。学校生活は彼にとって決して積極的なものではなく、この頃にはすでに「幽霊」というイメージはでき上がっていたという。 多感な青年期に、安規はしだいに文学や美術に興味をもつようになる。1学年の末には『秀才文壇』に短歌が掲載されているし、文芸雑誌『ニコニコ』や『朱ざんぼあ欒』などに投稿した短歌がいくつも見られる。北原白秋が選者をしていた東京日々新聞の投稿欄「東京日々歌壇」のなかから厳選して刊行した『木馬集』の中には、次のような安規の歌が選ばれている。 「真竹藪竹の葉もれにしらじらと水の面は光る静かなり昼」 「濠端を走る電車の瑠璃窓に映りてすがし春浅き空は」 やがてはこうした文学への興味が嵩じて、在学中にはその後も親交を持ち続ける上田治之助、飯田正一、榎本憲阿ら同級生たちと短歌の回覧雑誌を出すようになっていたが、文学だけではなく、すでにグロテスクな美術に興味を持つようにもなる。安規の作品に見られる前近代的で土俗的な要素、あるいは冥府や黄泉の世界などは、出生の初瀬や朝鮮の暮らしの影響ばかりでなく、豊山中学での仏教的環境が拍車をかけたことは想像に難くない。       朝鮮での青少年期から豊山中学へ