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000大正デカダンスの長い助走路谷中安規の初期作品は、創造力の横溢するような様相をみせている。まさに胎内からの嘔吐的な形象を、次々に繰り出すようだ。多くの画家が何らかの自然主義的な写生から始めるのにたいして、独学であった彼はもっとも遠い地点にいた。20歳代後半に描いたと伝えられている性的で怪奇面妖な大量の素描は、いままでの美術史におさまりきらない才能を暗示している。それらの原型は、出生から幼少期の複雑な環境と第二の出生ともいえる青年時代の揺籃期にあると思われる。 本格的に作品を展覧会に発表し始めたときには、すでに30歳を越えていた。その助走の長さは、1920年代という両大戦間にあって、様々なものが混交しきわめて高揚した大正という時代の感性を身につけさせる時間であったのだろう。短歌を詠み、詩作を続け、象徴主義やデカダンスなど多くのものを、文壇や画壇の人々との交流から吸収していった。文学と美術のあいだを彷徨っていた青年時代の蓄積が、その行方を大きく決定したようだ。 さて、安規の作品を生涯にわたってみるとき、表現の変遷とともに発表の経過を考えると、大まかに3期に分けられる。 初期は、永瀬義郎や日夏耿之介との交流が始まった頃の1924年(大正13)から、料治熊太に出会う1931年(昭和6)頃まで。暗中模索のなか制作を始め、デカダンスをまといながら悪魔的な幻想性をたたえた世界を逍遥する時期である。中期は、いよいよ日本創作版画協会や国画会などの展覧会に発表を始め、版画同人誌『白と黒』に参加した1931年から、第3次『白と黒』が終刊する1937年頃までである。アヴァンギャルドやモダニズムの影響も受け、シリーズや組み物作品も多く、もっとも充実した時期である。後期は、1937年以降の、戦争を経て掘立小屋で亡くなるまでである。版画が少なくなってゆき、一方で子供の楽園をイメージした心象風景が増える時期である。 それでは、版画を始めるずっと前、その生い立ちにも安規らしさが満載なのだが、そこから見てみることにしよう。